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『悟り』の問題

『わたしは悟りをひらいた』と考えたり発言したりする人は、『わたしは』という形でまだ自我に執着しているわけだから、実際には悟りを開いてはいないことになる。勘違いかそうでなければ嘘。

本当に悟りを開いた人ならば、自分が悟りを開いていることに対して無自覚であるはず。だから悟りを開いたままそれに気がつかずに毎日の生活を平凡に送っているかもしれない。

 

人類の歴史で悟りを開いたと言われる人は、ゴーダマ・シッタルタだけなのかな。イエスはどうだったのだろか。

(最後の最後になって『何で俺を見捨てたんだよお』と言っているところからすると多分悟りはひらいていなかったのかな。山上の垂訓はいい線行っているのだが)

では悟りを開いたかどうか何を持ってしてわかるかというと、その人の日々の言動、行動、そういったものから端で見ている人が推察して、ああこの人はきっと悟りを開いているんだろうなと感じられるだけで、実際にその人の精神状態がどうなっているのかなんて誰にもわかるはずがない。

 

悟りは特にひらきたくもないが、救済はされたいなと思う。何の救済なのだかわかったものじゃないけれど。だから小乗仏教である禅宗が近頃はしんどくなってきた。ひたすら念仏を唱える浄土真宗に乗り換えようかなどと思っていたりする。

 

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 新書

 


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